大阪府茨木市の車作という古くからある集落に「墨歌」さんというところがあります。初めて訪れたのですが、とても良い集落で山からは湧き水が湧いていて、それを集落に引き込み、生活用水や田畑の水として利用しています。
人は水さえあれば生きて行くことができます。自然が豊かで傷つけられていなければ、の話しですが、旅をしていて思うのは日本人は山岳民族と海洋民族の混ざり合った文化や風習を持っていると思います。とても急な山の斜面に張り付くように造られた集落は日本の至る所で見かけます。その場所には必ず湧き水があり、豊かな山と日照があり、建築から日々の暮らしまで、全て人が1日で歩いて帰ってこられる範囲の中で事足りる環境があります。
この集落もかつてはそういう環境だったのだと思います。「かつては」というのは、今はこの辺りの山々は「開発」という「破壊」に晒され、見るも無残(僕の感覚です)な状態になっていました。
都市化が進み、マンションや公共施設が立ち、高速道路や生活道路が整備され、モノレールも走っていました。箕面に住んでいた猿たちも姿を消しました。「この辺りの山はもうダメだ」という野生の判断があったのだと思います。
いきなり脱線しそうなので話を戻します。先週、友人に誘われて「お粥断食」に行ってきました。墨歌の酒井貴美子さんは前からの知り合いで、以前、仲間と合宿をしながら環境整備の仕事をしている時に、参加者(講座形式でもあったので)全員の食事をつくってくださっていた方です。30人とか40人くらいの食事を、それも「本当にちゃんとした食事」をつくってくださっていました。
「本当にちゃんとした食事」というのは「命そのもの」だと思います。母親が子供に食べさせるもののように、本当に価値ある食材を、そのエネルギーを奪うことなく、また邪魔することなく調和させて、食べる者と食べられる者が互いに生かされ合う食事の事だと思います。
そういう食事をつくれることは、本当にどんなことよりも尊いと思います。それは本当に「命そのもの」だと思うからです。
その当時は、僕もこんなふうには感じていませんでした。それが本当に価値あるものだと気づいたのはここ数年のことです。
古民家を訪れるとなぜかホッとします。自分が生まれ育ったのが築100年以上の古民家だったので、家に帰ってきたような感覚です。
炊き出し用の大釜でしょうか、二つも。薪で炊けるようにブロックの上に据えられています。
玄関の土間には物販の棚もありました。3年熟成の梅干しや琵琶などのチンキ、黒焼き、塩、醤油、味噌。手作りのものを中心に、信頼できる方がつくられたものもありました。
海洋民族が海の幸を採取し、平地では畑作と稲をつくり、山岳民族が山の守護をしてその恵みを受け取り、それを循環させて、この日本という地域は一つの文化をつくり上げていたのかと思います。自然との共存。本当の日本人の生活を見ているような気がします。
「お粥断食」は「何も食べない断食」とは違います。僕は日常的に1日「何も食べない断食」はすることがあります。意識的にではなく結果的に。何かに没頭していると食べることを忘れるからです(最近時間の流れが早すぎます)。
「お粥断食」は食べる断食で、玄米のお粥と3年熟成の梅干しとお漬物、天然塩、味噌、醤油、胡麻は食べられます。
昼と夜はこのお粥セット。
朝はお白湯に味噌を溶いただけのお味噌汁。これが身体に染みてめちゃくちゃ美味しいんです。この味噌も手づくり3年熟成、塩分たっぷりです。
天然塩は陽性、万病に効く薬でもあります。殺菌、浄化、解毒をし体を温めてくれるようです。
食養の「陰陽」の事も教わりました。というか、3日間の断食だったのですが、そのほとんどが座学で、食事をいただきながらでもその講義は続いていましたし、お手当の講義もこの「陰陽」の事を基本にしていました。
「陰陽」。とても深いです。僕は分かったようで、まだちゃんとはわかっていないような気分です。
陰陽は二元性であり男と女や+と−、上と下、光と闇、正義と悪など、相対する対のものです。それらは分離されたものではなく陰陽のあの図形のように「それらは共に内包し合い一つのものである」という事には気づきましたが、実際にこれは「陰」でこれは「陽」だという見極めにはとても深い洞察力と経験がいるのだと思いました。「塩が陽である」という見極めは、教われば理解できるかも知れませんが「塩を経験する」事をしないとわからないことでもあると思います。
「陰陽の境目はあるのですか?」と質問した時に「境目はありません」と言われました。砂糖は陰で塩は陽。毒と薬、と僕は理解していました。「何かと比較して陰か陽かの判断はできますが、その境目はありません」と。ふむふむ深いなぁ〜。
「美味しい、と思えるのも大切だと思う」と、ある人に言われましたが、本当にそのとおりかも知れない。度を過ぎたり、バランスを崩したりしなければ「食から得る幸福」は大きな娯楽でもあると思います。本当に理解していればそのバランスを崩す事もないのでしょう。
さて断食ですが、僕は本格的な断食をするのは初めてでした。ずっとやりたいとは思っていました。「身体をリセットする」という事を今、やるべきではないかと思っていたからです。気になる断食イベントもチェックしたりしていました。
全てはタイミングの問題です。ちょうどこの時、たまたま友人と仕事で一緒になった時に誘われ、墨歌さんとの日程も合い、ごく自然に断食の日程が決まりました。
「願っていることが具現化する」という事は本当なんだな、と思います。想像が現実を創造する。人が持つ力であり、それが「今」を創造している。しかもそれは自然な成り行きとして目の前に展開して行く。
話がズレそうですよね。断食の話をしましょうね。
1日目の朝、言われていた通りに味噌をお湯に溶いただけの味噌汁を飲み、昼は玄米のおにぎりと漬物を食べて墨歌さんに着きました。講義の後夕食。お茶は玄米の黒焼き茶。9時就寝(すぐに眠れず少し夜更かしして10時頃就寝)。
2日目の朝もいつもの味噌汁。その後、日拝に近くの公園へ。曇りで朝日は見えず。講義の後、お粥の昼食。午後は講義とお手当の講習。お粥の夕食。夕食の後、近くの温泉へ。その後就寝。
3日目は味噌汁の朝食の後、日拝、綺麗な朝日を拝む。午前の講義と「感謝の食事」の説明。昼頃解散。という日程でした。
写真はお土産に頂いた紫蘇と購入した黒焼きです。
手作りの味噌も購入しました。今年の夏で3年熟成になるとの事ですが、とても美味しかったです(ホントに)。
味噌も醤油も梅干も3年以上熟成しないと本当の力は引き出せないようです。「塩が馴染む」というのはこの事なのかなと思います。
3年熟成のものは薬になります。「本当の食事」は栄養であり未病のための薬なのです。
こういう食事をしていれば病気にはなりませんよね。「医食同源」は人間の文化であり知恵だと思います。現代人はこれを完全に忘れさせられました。防腐剤や添加物や農薬がその文化にとって変わったからです。病気やアレルギー、精神性疾患などは現代特有のものだと思います。病気になる食事をし、病院に行って石油由来の薬を飲む。「日本の食」は世界一危険です。その認識も無い。みんなテレビを信じている。ニュースを信じている。病院や医者を信じている。漢方や伝統医学を軽視している。その様相がこの現代社会です。
「二極化した」と言われています。本当だなと思います。洗脳から目覚めない人は、自ら奴隷となる苦しみを選択して、それを学びとする事で魂の成長をすると思いますし、それを反面教師として私たちに示してくれています。たとえ家族であったとしても同じ次元にいる事はできません。僕もそれは経験していますし、そこに「良い」も「悪い」もありません。「全ては一つ」なのです。
めちゃめちゃ脱線してますよね、すみません。「断食」の話しです。
3日目の午後、家に帰って先ず、指導通りに300ccの水を噛みながらゆっくりと飲みました。
そして大根の煮汁300ccに梅干を2個溶いたものを計4杯飲みながら「感謝の食事」をいただきます。
写真は「感謝の食事」として持たされたもの。ちょっと食べかけなのと梅干は大根の煮汁一杯目で使ってます。
「毒出し」は僕の場合、2日目のお昼頃から始まり、3日目に家で「感謝の食事」を食べる頃にはトイレから離れられなくなりました。
感覚としては「水で洗い流される感じ」。3日間食べたものはそのほとんどが水分と塩です。
「感謝の食事」として持たされたものも「水」と「塩」でした。内容は大根の煮汁(1、2ℓ)、大根の煮物、葉野菜(生)、根菜(生)、りんご、梅干です。
これらを1時間以上かけてゆっくり食べます。できるだけ満遍なく沢山食べるようにしましたが、全部は食べきれませんでした。
ようやく夜の8時頃、お腹の調子も一段楽してやっと一息付けました。「毒出し」の間はけっこう過酷です。「下からの嘔吐」みたいな感じ。大根の煮物がブラシとなって腸を洗浄してくれた感じもします。
感想。
座学は石塚左玄の「食養道歌」を元に「陰陽」の事、「玄米」の事、「免疫」「梅干の伝承」「手当て法」「食薬」など、本当に多岐に渡り様々な角度からの学びがありました。どれもがとても新鮮であり、納得できるものでありました。
「食」に関しては現代の「栄養学」をはじめ、様々な考え方があると思います。「自然主義的な食」の中にも様々な考え方があります。「陰陽」の捉え方もそれぞれである場合もあります。
「それぞれの真実」はそれぞれのものだと思います。「これだけが真実だ」という事は無いと思っています。そこに執着することが「争い」や「分断」の始まりであると思いますし、「二極は一つのもの」という僕のこれまでの気づきとも違ってきます。
「陰陽」の見極めも難しいですし「正邪」の判断も容易では無いと思います。
「それぞれに、それぞれに合った真実がある」というのが今回の感想です。これが真理ではないかと今は思っています。
「多極化」と言えるのかも知れません。蟷螂(カマキリ)の正義と蜘蛛(クモ)の正義は違います。誰にもそれを決める事などできないのです。全ては二元性の表れでしかないのですから。
2日目の朝、素晴らしい場所を見つけて日拝ができました。太陽は「陽」ですが、その光は陰も生み出します。命の源であり、それが無いと生きられません。
太陽は正か邪か? 日本人は太陽を神としました。自然神です。その感覚が物事を見極める本質なのだと感じます。
海は陰か陽か?「海水は陽であり、海は陰である」。僕の今の「陰陽の見極め」です。まだまだなのかなぁ、ずっと探究は続きそうですね。